開発裏話その3

開発裏話その1、その2は都合によりHPより削除いたしました。
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内容 
開発裏話その1
無き模型メーカーの仕事
●幻の1/144
●型屋のプライドがゆるせね〜
●線一本分ちがう
●タミヤのキットが変だ
●組長の息子

開発裏話その2
●脅威(その1)
●脅威(その2 )
●Rと影と存在感
●0.00mm死ぬからエエんだ
●イッ・チョン・チョン
●小口
●型屋にゃ型屋の仁義がある
●NANOじゃないアイが違う精密技術
●ROSSO
●冬はボートの季節
●最速の新製品決定
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なぜ、彗星
エルエスの飛行機プラモデルの最初の作は「彗星」である。なぜ彗星だったのとよく訊かれた。
開発は当時余程の飛行機好きでなければ、此の機体を知らない時代にである。
F86の姿をよく見られる様になった頃、飛行機の事など詳しくない者に、ここから空気を吸い込みジェットでプロペラを回すんだなどと騙していた。

戦前、戦中とグライダーの設計士であった木村社長からこんな事を聞いた事がある。
一時、軍のグライダー開発に携わったことがあり、そんな関係で「ある日空技廠へ行った時のこと、無塗装の最新鋭の試作機が屋外にあり、太陽の下でジュラルミンの肌が輝いていた。」「強烈な印象であった。」、後年プラモデルに進出、飛行機をやるにあたり迷わず彗星に決めたと。
最近ではどうして彗星だったのと聞く人も少なくなった。
2003.10.20

職人共のアル勉強会

東に文化勲章受ける人あれば、西にズル休みでタイガースの優勝パレードを見に行く人あり。そんな高尚な日に全くそぐわない話である
 型屋がダメになるのは大概女と博打と訊いた。多くの型屋ではないと思うが、型屋本人から訊いた事だから確かなことであろう。後年そのご本人にその一方で苦しめられるとは当時はまだ予想もしなかった。名誉のために何処の型屋かは伏せよう。
然し、概して職人はそれらが好きである。であるから自分も職人と思っている。博打は嫌いだある勝負で大きく負けたからだ、きっと相手も同じ思いである。結婚というバク 。
 型屋からのその電話は大概週末である「勉強会やる」「研究会をやる」。それには万障繰り合わせ出席した。
仕事に関係する大切な勉強会であるため会場の工場出入り口には厳重に施錠する事から始まる。メンバーは何時も同じである、然し何故か型には全く関係ない者も含まれている。勉強会は技術的に進んでいた海外の映像資料を用いることが多かった。ビデオなど未だ無い頃、その為の8mm映写機機器設営から始まる。時には機器の不具合があり球切れの時などは血走った形相で深夜カメラ店を叩き起こし調達、それほど真剣な勉強会であった。リールのサイズが国内の映写機に合わない時などは知恵が出るものである。型屋の6mm程度の鉄棒をリールに通しダイヤルゲージと言う精密計測装置を取り付ける道具で支えたり、コンセントが合わなければ電気コードの先に銅板をくっつけるなどと危険な方法をとったり、馬鹿です。
この勉強会暗闇の中、光が外に漏れることを嫌い、声も沈め、映像に音声が付いている
時はその音を絞るのである。不思議な勉強会である。映像から出る音声は外国語など全く分からない者にも理解できる単純な繰り返しの短い言葉である。
勉強会の内容?あ〜た野暮なことなしでっせ。遙か昔の時効になっている事です。青いフィルムですがな。その勉強会はその後映像記憶技術革新により資料持ち回りのメンバー各員の自宅での自習になった。
それが何の勉強なんだい?ですと、型とはプレス型にしろプラスティクのインジェクション型にしろ雄型と雌型の組み合わせじゃい。トライ品のチェックで部品の組み合わせ用の凸ピンと穴のかたさが上手くない。ピンはノギスで径は計れるが2mm程の穴径など正確に計れない。寸法なんぼ詰めてくれなんて指示できない。「今、40位だハタチ位にしてくれ」次のトライ品、いや〜!いい感じのかたさになっている。「ハタチではきつ過ぎるから27,8にしといた」大概最後の方はこんな感じで詰めていた。下手な数値よりも出来はよい。勉強会で育てた阿吽の呼吸というこっちゃ。「40位だハタチ」セクハラがなんじゃい。純真無垢なお子さまに提供する製品は、実はこのような汚れた大人達によって作られていたのだ。「勉強会やる」「研究会をやる」電話が懐かしい。
2003.11.3
飛竜
エルエスには飛竜の模型用設計図が二種類あった。
飛竜については、入社より一昔以上前のことで聞いた話である。
当初は公表されている資料、写真、木型などから図面化された。設計終了時点かか金型作業途中かで実機の設計図が残っているという事を知ることになり製品開発を中断する事となった。実機設計図は存在しないと言うことが色々な問題があり通説であった。その為持ち主からは公表しないことと口止めされたと聞く。既に持ち主の方は鬼籍の人ではあり、エルエス自体も無く、その図については近年他所よりもよく聞き、ほぼ公の事実の様ではあると推測するが、商品開発の情報源との信頼関係は相手の許しがなければ破るべきではないとの個人的な思いにより秘す。
 
図の借り出しは勿論出来ず、コピーも許可されなかった。勿論現在のように簡単なコピー設備も存在しない時期であった。その様な状況の中、持ち主からトレース(写図)の 許可は得られ、担当者は一週間程通いトレースをした。
その新資料を基に再設計、製品化された。当時の広告の発売予告を、大幅に遅れて発売されたのはその様な背景があった。

発売後、当時騒ぎになった操縦席に対してプロペラ位置(機体前後方向)論争を引き起こした(当時の航空フアン誌に関連記事が掲載されている)。有名某氏作図の図面とキットと異なっており、某氏より雑誌等でキットの間違いとして批評された。説明書には実機設計図を基に開発との一文は入れてあったが、図の持ち主との関係で反論する事は出来ず、非常に残念な思いをしたと社長等から聞いた。後年、自分自身設計担当した二式大艇の側面銃座と主翼後縁の位置関係で同様なことを味合うとはその時は想像もしなかった。

近年飛竜がモデル化された。そのモデル化の資料の背景は知らないし詮索するつもりもない、然し名機といわれる工業製品(敢えて兵器といわない)が図面という専門的な物よりわかりやすい立体物で誰もが見られ、後世まで残るということも機体としては仕合わせなことであるのかも。

トレース図面のこと。エルエスが本荘中ノ町という東海道線の脇に移る前、桜木町時代手狭で倉庫が数カ所在り、ある日その倉庫の一つに行った。雨漏りがする倉庫であった。柱の所に汚れたボール紙の紙管が立てかけてあった。職業柄、図面?と感じ開封した。案の定、黄変したA0版のトレーシングペーパーは飛竜のトレース図であった。

置いてあった状況にある種の怒りを感じ、持ち帰り上層部に保管の杜撰さを詰め寄り図面屋として抗議した。それが此の飛竜の話の発端である。その後は自分の職場で厳重に管理した。職を辞したその後の図面の所在は知らない。工場跡地は更地になっており、その最中只の紙屑として姿を消していなければと時折思う。

飛竜開発にはタッチしていない、社会に出る前一ユーザーとしてエルエスという同県内のプラモメーカーを意識したのはこのキットである思い出深い品ではある。然し一時代を築いた飛竜のキットがありあのエルエスがあり、飛竜が在ったが為にあのエルエスが消えた根強い一因となったと考えている。
2003.11.29
仕事と遊びと狂気の狭間
エルエスの主力商品の中にGUNシリーズがあった。当初は組立モデルであった、これは
エルエスの企画ではなく倒産したメーカーの金型を引き取ったのである。引き取り後可動
出来るように相当時間を掛けたと聞いていたので、そのメーカーで 発売されていたのかは知らない。
その後つづみ弾と言う照る照る坊主を寝かしたような弾の飛ぶ銃のブームが来た。然し
エルエスは市場に完全に出遅れた。模型メーカーの玩具とは違うとの考えがあったのともう一つ悲惨な事故が背景にあった。
スケールの組み立てモデルの頃、アメリカで5才の子供がポリスに射殺された。組み立てられた銃を玩具にしていたのであろうその子供がポリスに銃口を向けた、アメリカ社会では当然の行動をポリスはとった。現在玩具の銃口に赤いキャップが付けられている、この事故が発端で義務付けられた事項である。どこかにこの悲惨な事故が弾のとぶ銃に踏み切れなかった拘りになっていた。その後営利企業としてはそれらを乗り越える必要があり踏み出し、その後つづみ弾、BB弾の時代に移行する。その過程で内部構造まで再現したM16、AKMなどは金型流用改造で姿を消すことになった。尚、M16については時折実銃の取材のことを訊かれることがあるが、実銃取材は勿論本物も見たことがない状態で開発した。

エアーガン開発では企画室と言う名の開発部署は無法地帯であった。エアーガンがブームになりかかった頃、関西方面で中学生が街灯をエアーガンで割って社会問題になったことがあり、これ関して社内でも色々な意見が出た。課員の若い者に点灯中の蛍光灯を撃たせた「そんな事していいんですか」「責任者の俺がやれいっとるんじゃ、エエんだ!文句来たら責任とっちゃる。」バス、ボン、バシャ降り注ぐガラスの破片。「ドヤ!中学生のガキの気持ち分かったか」色々な考え方がある、法に触れることはダメだが触れない範囲であればこの部屋の中だけでやれ。
勿論、自分では自宅で既に実験済みではあった。
その後、切れる間際点滅する蛍光灯は全てターゲットになり専務の知ることになった。
「なにをやっているだ」「撃ってみます」バス、ボン、バシャ「でしょ、気持ちスカーとするでしょ」「いい悪いは別、ヤツらの気持ちになって開発して、それでこれ以上はダメだよと言う事を言える気持ちで商品開発することが大切」なんて分からぬ言い訳をし、その後は公然、突然バス、ボン、バシャそして社内中の切れた蛍光灯が部屋に集まることとなった。只割るだけではと方法はエスカレート、させた。蛍光灯の口金を持ちぶら下げ下から順に何処まで撃ち砕けるか、勿論持っているのは言い出しっぺの自分、撃つ方がビビリます。これは定番になりましたがさすがに持つ側の代人は少なかった。ペイント弾という中に染料が入り当たると潰れる弾が発売された、どれぐらいの距離で当たると潰れるか。「背中撃て」「割れまへん」「もっと近寄れ」「ダメ!」「もうチョイ」「もうチョイ」丸い染みと暫く消えなかったアザ。何故か付いている白い社用車の汚れ、何故か色が簡単に落ちないんです。安全対策でゴーグル使用が叫ばれていた。ポリカーボネート樹脂製の低価格品の試作が来た本当に安全か確かめた、実使用条件に拘った。数枚の段ボールにゴーグルが入る窓を明けゴーグルを被った顔にセット。数十pの処から撃つように指示、撃つ方はさすがに躊躇った「責任追求せん、仕事じゃヤレ」。目の回りに圧迫感のある衝撃、さすがに当たった時は目をつぶった様で分からず。無事でした。後で撃った者に訊いた「恐かった」の答えであった。安心して商品化した。
ある人が車を買い換えた、これから今の車と引換に納車と聞いた「傷ついていい」「いいですけど」「重量BB弾(ヤフーとは無関係)と新品のガス用意」バ、バ、バ、コン、コン、コン「あ、あ、あ!そんな〜」「やっぱ鉄板は強い、これだけしか凹んでない」
写真撮影用の500wのレフランプを使用することがあった、時折切れる。撮影中止、すぐに倒した空のゴミ箱にセット。500wでチンチンに暖められた大型電球、迫力ありま「そこのカメラマンの人ダメダメ、なんでレフランプ外そうとするの」ズボッ!「アア、やちまいやがった」癖になるから止めなさいと言おうとしたのに。社の社員旅行で東京見物、仕事で日頃お世話になっている方々も食事の席に招待。某佐竹さんもその一人「道分からず途中で交番で訊いてきました」「佐竹さん、腰の後ろ変」「アアこれね」ズボンに刺してある物取り出す、絵筆にあらず「あ〜た!それチーフスペシャルでしょ」二昔前のお話です。仕事だから100%は無理でも楽しむ物は楽しんで作らなきゃ。
2004.4.18

1/144の質をおとす
エルエスの1/144はオイルショックが無ければ生まれなかったようだ。
その当時途中入社で上司からその経緯を聞いた。原料の高騰や入手出来なくなる恐れがあるなどからその為原料が少なく済むものとして1/144を開発したと言う。巷ではトイレットペーパーを買うため行列が出来た時代である。その為1/72の1/144を作るコンセプトであった。
当初は試作機シリーズを狙っていたようで複数の外観図もあった。

飛行機に関わったのは1/144日本機シリーズの最終トライ辺り、見習いであった。
その後神風、97司偵シリーズを担当。神風は図面は出来ており一部改修して製品化まで担当した。
その頃マニアホビーの97司偵が発売されていた。
神風を纏める過程で他メーカの水準の飛行機が出来ない事情を知った。これについては具体的な内容は口外できない。
ジェットシリーズF15、MIG25迄は開発の責任者は別にいた。その2点発売後その時点で1/144は中止になる状況であった。金型等投資に見合う商品単価が取れないと言うことが一番の原因だったと思う。オイルショックの逼迫感も薄れ、他社は従来の商品の延長線で開発を進めていた。その頃開発の責任者になっていたため戦闘機からC130辺りまでの10機ほどの大きさの違う機体の側面図で1/144のメリットを説いて回った。
日本の住宅事情から1/144は最適、一機単位でなく部隊単位で集めてもらうようにするが説得の柱であった。大型機ならば1/72の戦闘機の価格は取れる、単純に一機単位では100円×1、部隊単位ならば100円×5にも10にでもなるはずである。

再開が決まった。F15、MIG25迄の商品は気に入らなかった。先ず製品表現の水準を落とした。当時も肉厚の薄い物が良い製品と言われていた。いる。
前記2機の方が後の物より遙かにシャープだと思う。板厚まで1/144スケールで追求し薄くしてもそれは成形屋の技術水準で在り、それを得るため充填不足の不良率が高くなり、又その管理に余分な労力を遣うのは商品として決して良いものでは無い、必要以上に薄い物は100円玉を握って買いに来て、歯で喰いはなす子供には脆すぎると思っていた。勿論当時でも他の工業分野ではそれに見合った金額の金型、生産設備でプラモの世界で精密と評価されている以上の精密部品は生産されていた。

小規模の開発部門の仕事は多岐にわたり、段ボール印刷用の版のの下絵デザインも行っていた、そのため大半の段ボールに入っていた「技術のエルエス」(どこかの自動車メーカーにも同様なコピーがあった、エルエスがパクったものと思う)の文字を全て取り去った。他社の製品水準から遅れを取り出し、その事に気づくことに鈍くなっている源のように思っていたからだ。当然烈火のごとく怒られた、しかし飛竜は昔と思っていたのでそのコピーは復活しなかった。

最低肉厚0.5mmとF15の一番薄いある部品の薄さより0.2mm厚くした。仕上がりは他社の発売中の物を蹴落とす事を目指した。勿論同じ物作りの人間としては資料の無い時によく出来ている、よく作られたと思いながらも、メーカーの人間としてF14はオオタキがターゲットであった。決してオオタキよりいい物を作ろうと思っていなかった。どうしたらたたき落とせ、蹴落とせるかが思いであった。その為エアーインテーク上部のイカリ肩とエンジン部、排気口に至る2度とやりたくない変化の作図をやった。
F4は全く新しい割り切った姑息な考えでやった。タミヤの 1/100が参考品であった。筋彫りの表現の考え方を変えた、実機のパネル構成よりタミヤのF4の省略の方法を研究した。よく似ているはず。参考品の筋彫りについては?という話は全く聞いたことがなかった、当時タミヤの物が正しいという空気があった、その為自信はあった。らしさと言うことはさすがにタミヤであった。

当時と現在では1/144を取り巻く環境が全く異なる。どんなに手を加えても、どんなに高品質の物を作っても、この大きさでは50円、100円。50円100円の商品に物好きにこんなに手を加えてが評価の大半であった。最低限のマークのデカール、箱の裏側の読むことが出来ないような説明書は余裕のない原価のためであった。他社の製品水準より遅れを取り出し、既に遅れていた状況下で現在でも通用する製品が出来たのは、その事を察知し心配していた型屋や社外の協力スタッフの大きな力があった。その中の一人に当時協力工場の一員であった現ファインモールド鈴木社長もあり、氏の影響も大きかった。

ボンネットバス
もう35年近く昔のことになる、夏とはいえ肌刺す空気はヒンヤリと冷たい早朝の上諏訪駅々頭。前夜名古屋駅で目的の列車待つ行列での数時間、幸い座席を確保できた車内は通路、デッキ、洗面所まで人とリュックサックで一杯であり、座席の下に新聞紙を敷きそこにも寝ている者が居る、当時それがごく普通の週末の中央西線山行きの夜行であった。
駅前には当時でも珍しいボンネットバスが並んでいた。
山道を喘ぎながら登るボンネットバスに揺られ目的地の霧が峰の中心強清水(コワシミズ)に着き、その後ゲーロ原、沢渡りを過ぎ突然目の前に開けた八島湿原の景観に息をのんだ。その感動が以降 20年近く毎夏此処を訪れさせることとなった。八島湿原脇には牧場があった、小林旭の渡り鳥シリーズのロケ地である。ある年小海線を回ることにしたJR最高地点を行く路線である。清里駅で下車、駅前は数件の民家があるだけ、古びた木造駅舎の脇に一坪程の 古びた小屋の立ち食い蕎麦屋が一軒あるのみであった。乗降客は他におらず穏やかな田舎の駅であった。
何年か後、家族でキャンプに訪れ清里のチャラチャラ、ハデハデな変貌ぶりに驚愕した。
エルエスのボンネットバスの第1弾が黄色い車体のバスになった理由は此処にある。その頃ミゼットを始めとするシリーズもようやく評価されてきていた。しかしボンネットバスは投資金額も大きく、あまりパットしないアイテムであり開発の承認が下りることは無く、その為実現するのに別の切り崩しを考えた。
元々1/32は純粋なスケールモデルの考えは二の次にしていたので模型店とは別の市場を考えた。当時国内にあるボンネットバスが各地の観光地で目玉として使用されていたので該当各地観光課に年間の観光客とその年齢構成を問い合わせた。所により数10万人〜1000万人と大きな開きがあったがトータルすると大変な数字であった。これの0.01%でも模型市場より升は遙かに大きいと押し開発することになった。

エルエスのバスキットは通常の模型と少し違う。観光地の土産物にする事を考えていたからである。箱形態は土産物屋の店頭の饅頭である。一番上に中身が見える見本を置きその下は包装済みの状態のそれである。箱を開けるとボンネットバスの格好が認識できる(プラモデルの車キットは客が一番確認したいボデー形状が一番見にくい箱形態で、その為店頭では必ず開封しボデーを取り出し客は確認している)。中の台紙もタイヤを印刷してボデーと併せて違和感のないバスの姿になっている。

自動車以外の交通機関でで訪れる人には余分な荷物は厄介な物である、その為他の土産と一緒に出来るように大きさは土産物店にある手提げ紙パックにすんなり入る大きさにした。部品の配置も箱形状に合わせた。ボンネット部分も含め黄色1色のバスはプラモデル→塗装の連想を薄めさせる効果も狙った。女の子、工作苦手な人でも出来るように接着剤不要の構造にし、完成品の発売も視野に入れた構造にした。
此処でネジ止めが女の子に出来るのか、ドライバーの無い家もあるとの意見が出た。これにはホームセンターで売っている家具はネジの組立式、ネジ締めは女の子に既に抵抗無い。ドライバーは家の中には無いが車庫の車の中にあると詭弁でクリアーした。それに対応するためネジは組立式の家具に使用されているネジを連想させる形状、模型にしては大振りなネジを使った。筋彫りはあえてあまくしてホンワカ感を優先した。

何故ボンネットバスらしくない派手な黄色のバスをシリーズ最初の物にしたのか。1/32シリーズには「何故今古い車なの?」との質問が付いて回っていた。企画当初から世の中が昭和30年代が注目されているから流行の最先端の物を作っていると言うのが個人的な考えであった。その為実車は古いが、プラモデルとしてはその感覚にならないようシリーズを通し神経を遣った。他の観光地の大半の物は昔降り立った古い木造の清里の駅舎に似合うボンネットバスらしい塗装であった。

常に頭にあったのは当時多くのマスコミ等で採り上げられ、流行の先端の地であったチャラチャラした町並みに変身したキヨサトの町並みに合う姿のバスと都会のファンシー関係に並べても違和感の無い物、女性雑誌でも注目される物であった。他の観光地の物は違和感があり、模型以外の市場展開が難しいとの考えもあると同時にベースがあればご当地バージョンは何時でも出来るとの思いもあった。

当時もボンネットバスは全国で見ることが出来た。映画、ビデオの中のアメリカの街中を走るスクールバスは細かい形状は関係ない一般的な人には黄色いボンネトバスなのである。模型界から見ると異端児的な黄色いボンネットバスは実は普通のバスなんです。

取材は佐久市の千曲バス本社で行った。何年か後、家族旅行の写真を整理中すっかり忘れていた野辺山駅前で撮影した写真が出てきた、その時格好いいと感じ撮った事を思い出した。

このボンネットバスは身売りされてきた車で最初の使用地の道路事情により、ある箇所が特別仕様の構造になっている。キット発売後よく見るイラストや他で発売される模型等を見るとき見事にそれが表現されておりエルエスのボンネットバスが傍らにあると、ニヤッとしている。模型店以外への展開は面倒なことといういつもの空気で尻窄みになった。
呉市のボンネットバスの箱絵は当時話題になった親と子供の本物のヤマトのエピソードを表すため、沖の戦艦大和に対し右下の子供に宇宙戦艦ヤマトを持たせた。これが私が手がけた最後のパッケージだったと思う。1/32シリーズ開発について箱の背景含め長年ためた雑多な個人的な資料が基となっており社を辞めたあと以降パッケージは変わっていった。

繊細な道具
東京日本橋浜町に前進座があり、その地下に地下鉄浜町の駅がある。隅田川より数本離れた筋を川の流れに沿い歩くと大通りに出る。通りを渡り少しの処にその家はある、駅から歩いても僅かな時間の処である。しかし今、其処の主は居ない。
昭和58年6月3日午前10時その飯塚さんのお宅へお邪魔したメモがあった。詳細な記録も記憶もないからF16かF20かどちらの打ち合わせであったのかは分からないが8月24日F16XLの木型受領の記録はある。その後一度お邪魔したことがある。
平成15年10月は淋しい月になった。初春A氏から飯塚さんが一度会いたいと言われていると病状のこと含め 突然連絡があった。静岡見本市を観たその足で上京した。
入院先の病院へ見舞いに行く予定であったが、その日退院されたことを東京駅で知った。
ご自宅へお伺いする約束の時間まで間があったため夕暮れの浜町界隈を1時間ほど手土産の和菓子屋を探しながら歩いた。粋な雰囲気のある街である浜町→花柳界そんな予備知識しかないが前に訪れた際そんな街の空気を感じていた。町内に置屋が何軒もあり芸妓さんが身近であった街で育った者には何か落ち着く雰囲気の街であった。和菓子屋を訊ねた通りすがりの女の人の標準語ではない東京弁?にほっとする色気を感じた。

午後7時、暗い通りでそこだけ明るい飯塚さん宅に伺った。小粋な衣装の思ったより元気そうな飯塚さんであった。落ち合うA氏が見えるまでの間中島飛行機時代の話を聞き訊いた、勿論木型を見せていただいた。144のF16/20以外の飯塚さんの木型を見るのは初めてであった。いずれの木型も色気があった。それまでお会いしたのはホビーショーなどでお会いした時を含め10回も無くお話した時間はトータル2時間も無かったが物作りの現場人間には通じるものがあるのか話が弾んだ。
木型屋さんは何人も知っているが飯塚さんは他の木型屋さんと異なっていた。大半の木型屋さんが工場のイメージが背景にあるが、勘違いされると困るが木型を含め女の影と言うか姿が感じられた。今は見かけられなくなった子供が踏み込めない大人の世界があった時代の男の大人の世界からくる影である。
明治大正生まれの職人上がりの店(たな)の主たちの仕事を離れた場での凄さ遊びの深さ、其処での凄さ深さが作り出す物に滲み出ていることを町内の酒宴などで知らされていた。浜町界隈を歩いたのも以前から感じていたそんな背景を知りたかったからでもある。あの街の空気の中だからあの木型が出来たのではと、今も思っている。
その後A氏らを含め話は弾み暇することにした。玄関で一旦靴を履いたが再び上がりこみ握手をした。驚くほど華奢な繊細な手、指先であった。女性でもあのような綺麗な手を持ち合わせている人は少ないと思う。あの手だからあのような繊細な木型が出来たのだろう、遣われていた仕事の道具は見たことは無いが一番の道具を見、感じた。
再び上がりこみ握手を求めたのは今の自分には経済的、時間的に東京はあまりにも遠く再びお会いすることは出来ないとの万感の思いからであった。10月のある日夕方5時少し前、訳も無くイライラし腹が立ち、切断した小さくない物が手から落ちいくら探しても見つからない、そんな事が10分程の間に数度起きた。翌早朝飯塚さんの訃報をA氏より受けた偶然ではあるが訳も無くイライラしていた頃と聞いた。
あの日大切な時間を持てたこと、機会を作っていただいたA氏に感謝するとともに、現役だった日本機を知り当時の日本人の心を知る日本人の作る新作が無くなったことはさびしい。

恐怖の浜松通い
上田毅八郎先生とエルエスの付き合いは先代の企画責任者の関係からである。先代は静岡のF社の開発に籍をおいていた、其処を辞めた経緯は知らない。遠く離れた岐阜に来たのは当時在ったS市(あくまでS市、静岡ではない)メーカー間の”開発関係に携わっていた者は雇はないという五社協定とかいう件に絡んでと聞いていた。
私が入社して暫くしてオートバイで一度来社された。戦傷で利き腕である右腕の自由を奪われ、その後左腕の訓練で左腕で描ける様になられた、10年の歳月かかったと聞いた。
上田先生との窓口であった先代が健康上の問題でリタイア後もお陰様でお付き合いできた。
新体制での最初は飛竜シリーズ3作(飛竜、靖国、キー109)箱替えのボックスアート。
最初のため挨拶を兼ね社長がお会いし依頼、出来上がってきた。送られてきた画は社長のチェックで一部修正する事になった。
お宅は東名浜松インターの近くで、今も在るのか知らないが東京方面に向かい天竜川の少し手前に豪華客船がある、其の近くである。
修正をお願いするため伺う事になり車での順路を電話で聞いた。「船の出口から突然飛び出してくる車に気をつけるように」とクドク注意された。船はフェリーではない。
ドライブ日和の東名をカローラバンで飛ばしていった。浜松インターを出て直ぐの船の側を注意して通り過ぎる、確かノルマンディーとかいう客船であった。
夜毎、痴情最大の大作戦とも云える合戦が繰りひろげられるとかのあの手のホテルである。垂れ下がったビニールのカーテンから飛び出してくる車もなく、ほんの数分先のお宅に行った。流石艦船の大家の近所、船である。

こんな話は好きでもっと書こう、いや、本筋に行こう 。一応要望を話しお願いしてきた。数日後修正された画が送られて来た印刷の日程にギリギリでこれで印刷の日程に間に合うと一安心。しかし社長のチェックで別の箇所が気になり修正するよう指示。修正、修正の3度目、温厚な先生も流石に切れ「文句が在るなら、直接云ってこい」と社長に云へとえらい剣幕で怒られ、其処を頭下げ下げお願いし帰った。
数日後重い気分で修正成った画を受け取り行った。いつもの温厚な顔で迎えてもらった「我が儘な社長の下であんたも大変だな」との言葉を戴いて帰った、重大な事に気づいていたがそのままに。

「もうこれ以上は出来ません、画が駄目になるばかりです、日程もないですから」社長にチラリと見せて、無理な日程で各工程から吊し上げられ困った表情の印刷屋に手渡した。後は色校正(印刷直前の最終校正OKとなって印刷になる)印刷屋と組んで社長の出張日に合わせた。重大なことはバレる事無く過ぎた。
問題の修正はグライダーの設計者であった社長からみると技術的に少々納得が行かない部分があったからである。しかし凡ての絵描きさんが飛行機なりの対象物の技術的な事に通じているわけでなく又、感性の部分が大きなウエイトを占めている分野では時にはそれらを無視しなければならない、無理を通せば持ち味が無くなる恐れがある。芸術家ではないから客の要望に応えられなければならない面もあるが、要望に合った人を探し起用するのがいい物を得ることが出来ると思っていったので最終判断を任されてから其の方向で進んだ。
今でもピトー管が描き落とされているボックスアートを見る時当時を思い出す。指摘すれば「いや〜、すまんね」とミスを認め気持ちよく修正して戴けたはずであったが。

2005年
新しい年が明けた。ヒロシです 55才を過ぎてから四捨五入が嫌いです。年賀状に書き込んだ一文です。大晦日に年賀状を作り元旦に宛名書き、何処かで元旦は旦の字が日の出を表しており午前中と聞いたことがある、それに習って早めにした。勿論いい子振りで酔いの廻らないうちが本音である。エルエスを辞めその後他社で開発部門を行っていた。裏話もその当時まで拡大する事にした。

湾岸線M16事件
エルエスが分裂、専務の興したMMCに移った、僅か1年半程の短命であったが今の自分にはとても貴重な体験の次期であった。マツ・モデルデザインの名もこれに拘った、略すとMMDとなりC→Dと一段アップしている。その後JACと言う一世を風靡したエアーガンメーカーに移籍した。千葉県東関東自動車道(通称東関道)千葉北ICの近くの倉庫が工場で勤務地であった。

その日は暖かい陽ざしの午前中であった。埼玉県の奥へ行くため東関道、デズニーランドを横目に首都高湾岸線を北上していた。未だ四駆は珍しい時期であった頃ニッサンのテラノの最高級グレードを専用車で遣っていた、色はワインレッド。(このテラノは時として埼玉、群馬の山奥で夜討ち朝駆けのテラノホテルとしても活躍したこれに纏わる話も期待下さい。)助手席に20歳代の若い衆、ドライバーは自分。紺色の作業服に少し派手目のネクタイ、黒のサングラス。前方はクリヤーな追い越し車線を制限速度(法定ではない自分設定)で走っていた。

気持ちよく走っていたバックミラーに2トン車クラスのトラックが煽ってきた、「オモシレ〜じゃね〜か」と思った時、トラックは急に走行車線に除けた。なんだよ〜と不思議な思いで走り休憩で立ち寄ったサービスエリアで荷物の点検をした。箱に15丁程のM16アサルトライフルのエアーガンを箱から銃身の大半がはみ出した状態で摘んでいた。後ろから見ると後部ウインドから銃身がズラリと並んで見える様である。

礼儀として其れが分からない様に新聞紙を被せてはいた、心地よい天気の中僅かに明けたウインドからの風で新聞紙は捲れズラリと並んだM16が剥き出しになっていた。その筋の世界では大邸宅がネットで囲われたりしていた抗争の余韻があった時代の事である。あの時のトラックドライバーは確かに何かを見、真面目なテラノの乗員を何かと勘違いをしたと思っている。
2005.1.1

疑術 素人さんは怖い

以前O17が知れ渡ったとき素人考えで思った。医学の進歩がO17を発見していなかったら治療の問題は別にして広範囲に広がらなかったのではと。報道される症状は素人の知識では赤痢と同様でO17発見以前であれば即赤痢で隔離、徹底的な消毒がされたであろうと素人は思った。
 
エルエスがエアーガン市場に入ったのは遅かった。最初は外部からの売り込みでそれを基にしM16を作った。それ以前に一度外部から働きがあった、ガスガンの火付けとなったJACのバトルマスターと言う銃を生産を出来ないかと相談をJACから貰った。当時はポリス、ミリタリー用品を扱うショップ店であり製品の製造などで少し困っていた、その為生産が出来ないかが相談の内容であった。

それ以前に銃の取材を兼ねて同社主催のアメリカでの射撃ツアーに私と他の一人の二人が参加しそれ以来の付き合いであった。この時の話はプラモデル専門であったエルエスでは技術的、外部の協力会社の職種構成等を考えると相談は荷が重すぎお断りした。

その後社内の構成が少し変わり新しい方向への動きに抵抗が無くなってきた、丁度その頃前述の売り込みがあった。構造は当時入手出来たオリンパスのエアーブラシ用やプラモデル塗装用のガスを使用して連写する構造の物であった。最初は図で構造の説明を受け確かに動く構造と理解した、現物も動いている。その後本格的に製品化するためユニットをガス関連メーカーに開発を依頼した、ここで大きな問題が生じた。

ガス屋のプロが頭を抱えた、何故動くのか分からないと言うのである。理論上では絶対動かないらしい、素人の考えでは動き、実際素人の作った物が現実に目の前で動いているのであった。長い年月の間に素人考えで作った物が少し上の専門技術を持った段階では理解不能と言う場面に何度か遭遇していたので困った反面少し面白くなってきたとも思った。

その後試行錯誤で一部の理論無視で無事製品化出来た。エアーガンと言うプラモデルとは全く異なる分野の開発には、何の知識が無い素人状態で入ったため驚き、感動を味わい、ある時は地獄の苦しみも味わい、その過程で負った病は一生持ち歩く持病になったが非常に良い経験であった。

ある構造は流体力学の専門家が考えた物の正反対の物が良い結果を出すなど、試作実験データー採りの連続で技術の積み重ねであった。そして実験の中で出くわす偶然で救われたことが何度もあった。特に玩具関係はその辺りの技術が一般工業界などでは理解できない部分があるようで、それを疑術と自分では嘯いている。

開発で大事なことの一つは専門的な目で見るのではなく、素人の目で思いつき、目で見て、子供のように「ナゼ!」「どうして!」「おせえて!」が大切な一つではないかと何時も思っている。

その後ガスでピストンが往復運動するメカはある化粧品メーカーが関心を示していると頭を抱えた担当者から聞いた。ブラシで頭を叩く育毛剤に利用出来ないかであったらしい。
「素人さんは怖い」私が時折呟く言葉と全く同じ言葉をその担当者が呟焼いたことを聞き逃さなかった。
2005.2.20

シリアルナンバーの謎
久しぶりの追加、HP開設当時に書いた事を少し付け加えて書こう。
 
葛飾北斎の版画に波裏の富士という物がある、大波の向こうに小さい富士が書いてある絵である。絵の構図の方向からは富士は見えないという学説が新聞紙上を賑わせたことがある。その後、TVの深夜番組で浅草の浮世絵の彫り師を訪問するシーンを放映していた。重要無形文化財の彫り師が言っていた「偉い先生方がここには富士が見えないとおっしゃっているが、昔しゃ〜富士山信仰で何処にでも富士山を入れりゃ売れたから入れたんだ」。

真剣に問い合わせがあることがあった、シリアルナンバーの根拠についてである。
プラモデルにはbェ入って居ることがあり、特に鉄砲関係にはシリアルbェ入っている。これが曲者なのである。参考にした雑誌写真のb竡謐゙したの物のbネらば真っ当である。真っ当な事から少し外れたメーカーでは時折08や8や09や9で始まったり、末尾が同様な数字で終わっている事が常識であった。

設計が終わり検図時「このナンバーは何のナンバーだ」、ニヤッとして無言、「そう言や〜この前結婚式だったな」、「そう言や〜この前子供生まれたな」なんて会話がでる。そう、それは担当の特権で生年月日やら記念日やら何の何だったりが秘かに隠されているのであり、いわゆる役得部分である。09、9とは西暦年の省略であるある時他メーカーの開発担当とそれについて話しあった「いや〜家も同じです」。

全てのメーカーがそうでは無い、製品のシリアルナンバーと雑誌掲載の写真の本物と同じ番号のメーカーもある。チョットそこの人、頭ひねってシリアルナンバーなぞジーっと見ている人、前述の富士山と同じでわかりっこないからお止めなさい。210830なんて言う番号見たらそれ私の手がけた品です。何の表記ですて、その少し前に10何年ぶりかの中学の同窓会がありまして・・・・。それ以上聞くのは野暮って言うもんでっせ、何の何んなんですから。
200504.24


連想ゲーム


物創(造るではない)り屋にとって必要なものは、野次馬根性と広く浅い知識と浮気心と助平心と貪欲な探求心と少しのいい加減さと同じぐらいの意固地な心だと思う。
もう一つはいい酒場、いい酒は在るに越したことはないが自棄酒には勿体ない。

昔、NHKで連想ゲームという番組があった。色々なキーワードから連想し答えの言葉にいたるというゲームであった。
模型という一つのジャンルの中で新製品の案を練っても気づかないうちにそれまでの延長線上でしかなく新しい展開は望めない状況に陥ることになる。

ある時から連相ゲームをやることにした自分の頭の中では絶えずやっていたことである。メンバーは課員と事務の女の子を交えた。条件は人の誹謗中傷などを除きどんなことでもよいとした、卑猥、セクハラ含め全てである。仕事中にという声も出た、それには「それじゃ〜、お前たち若い野郎が乗る車のシートの背もたれが何でフラットにならなきゃいけね〜んだ」。おそらく自動車メーカーの仕事場で真剣にこの角度だと嫌われるんじゃないか?アーダコ〜ダとやっているはずだ。旧のワーゲンが売れなくなったのは狭さ故天井にハイヒールの跡が・・・余分なことはよい。
キーワードからメンバーが一人づつ連想した言葉を言っていく、年齢層、男女、担当の仕事により自分だけでの連相と大きくかけ離れた方向に展開し、知らない言葉が出てくる、知らない世界の入り口が出てくる、そんなことが多かった。ゲームは一度出てきた言葉が出たとき終わりとした。それが即効的に仕事に反映されることはなく、気分転換にはよいが無駄な時間に見えたが、長期に見ると個々の仕事の中や新製品発想の中に他人の言ったキーワードが生きてきていた事は確かであった。

当時ファクシミリが急速に普及しだした頃であった、話の出だしだけを書き仕事先に出し続きを考え書き込んで次の知り合いに流す、そんな計画は遂に実行に移すことはできなかった。実現しておれば日本中を回り想像もつかない話の展開になっていたはず、残念である。 

2005.6.7 工房より数100mの木曽川河畔に伊勢神宮遷宮用材のお木曳きがあり御神木がお泊まりになっている。当地では実に40年ぶり


仕事中に不謹慎な!俺流「CAD習得させホ〜」
エルエスがCADを遣いだしたのは業界の中でも早かった。導入などと言う程の物ではない。当時設計ソフトは何百万円とか1000万円とか云われていた頃、名古屋の会社のPE-CADと云うソフトであった。価格が27万円だったと記憶している。当時専務が進歩的な考えであったのでその主導で事務関係を含み

PC化が徐々に進められた。新旧の物の考え方の違いによる軋轢はそこかしこで当然のように起こった。その頃より数年前、玩具業界でもコンピューター関係の商品も出現しだしておりタカラがなるPCを発売ししてきた。当時ベンチャー企業の寵児と言われていたソードという会社(後に東芝に吸収?)が発売したA4版ぐらいの大きさのM5と言う製品で「ぴゅー太」は玩具ルートでのタカラの商品名である。玩具ショーでこれを見たときこれからコンピューター関係は避けて通れないと痛感した。

前からPCは欲しかったがまだまだ高値(高嶺)の花だったので買えず、それと途中で棒を折るのではとの思いもあり余所事であった。問屋関係でタカラの物は安く手に入り、同じ物と分かっていたがソードの物に拘ったが地方では手に入らず東京出張の時秋葉原のビルの裏側の少し訝しげなところで買った。休日の昼間つまり普通の家庭用TVをディスプレーとして利用するのでTVが空いている時間しか出来ない中マニュアル片手にベーシックのさわりをを覚え、少ししてから小数点以下の計算が出来るソフトが発売になりこれを購入20行足らずのバネ計算のソフトをベーシックで作った。動いたときは感動ものでありカセットテープに記憶した(この件若い人には全く理解できないであろう)。

その位の知識の中へCADが来た。通常の手描き設計製図の世界にそれより作業時間のかかる方法を導入することは色々な抵抗があり非常に困難であった。こういう時は先ず頭が先にやる必要があると思っていたからマニュアルを見ながら指1本で一つづつキーを叩いた。イライラで切れかかるのを抑えながらであった。その後一計を講じ一番若手に教え年長者を煽ることにした、幸い機械図面(製品図は型用図面のため機械製図が基本になっていた、只これがプラモデルにある種の悪影響を及ぼしている事はあまり知られていない)に無知であった。
矢張りCADは製図は難しいとの先入観でPCの前に座ることさえ難色を示した。宥め賺して「兎に角、俺の云うとおりにやれ」。

以下は頭の中で一緒に描いて下さい。横線を引く→直交する縦線を引く→中心より45度の斜め線を引く→交点を中心に円を描く→円の外側にシフトした円を描く→中心線間の1/4円弧を残し円弧の消却→残った円弧を6分割 そのポイントより外側に15度、30度の斜め線を引く→その2本の線を45度の線を中心にミラー反転→外円と45度斜め線の交点の内側の線分のカット→1/4円弧部分の90度回転コピー。この辺りで表情が変わる「ええんですか仕事中に」「どや!簡単だろ」丁度その時専務来る、一生懸命にPC扱っている光景に満足げに覗きに来た、一瞬変わった表情に空かさず一言「これは作図の要素全てが入っているんです、眉間に皺寄せてマニュアルに従って遣ってても理解するのに時間ばかりかかり無駄。これならニヤッとしながら落書き感覚で覚えれます神聖な職場で堂々と出来ない事が出来る、面白いはず」有無を云わせず、横線を中心にミラー反転で完成。以降大平にこの方法を導入、その後こんな方法で教育しているとか柳ヶ瀬の酒席で吹いている専務の姿を時折・・・・・・・。
尚、着色については避けた、若手と私では色の鮮やかさで大きく意見が分かれることが容易に想像できたからである。
その後、PCに対する抵抗が無くなりA+B=Cの初歩のプログラムから教えた。最初に答えがでたときは非常に感動していた。程なく前述のバネ計算プログラムをベースに補強したプログラムを組ませGUNモデルのバネ計算などに活用した。これは其れまでの方法より時間的に無駄を省くことが出来た。又、それ以上に社内の商品開発方法に対する考え方、その後の型屋の技術革新に対応できる下地が出来かかった事が嬉しかった。
2005.7.31 

NEW

出戻りモデラー
プラモデルの精密化に伴い部品数が多くなりそれなりの腕がないと組めないと言われ出した20年ほど前のこと、午前中休暇を取りいつもは見られないTVのワイドショーを観ていた。ブラザーミシンのCMのコピーに衝撃を受けた。「・・・のプラモデル感覚・・・」生地に全てがプリントされ鋏で裁断、ミシンで縫うだけで簡単に服が出来る、プリント済みの生地製品のCMであった。そのCMは以降全く観る事はなかった。同じ頃TV番組の中でプラモデルが登録商標であることがよく採り上げられ世の中に登録商標であることが認知されつつあったのでその絡みでCMが終わったのではと勝手に想っている。衝撃であったのは、うすうす感じていたプラモデル=簡単に出来る物との世の中の見方を示し付けられたからであった。社内はもとより見本市(ホビーショーの事、見本市の表記が私の中でスンナリくる)の居り業界の人に話すも「それが・・・」の反応であった。そのコピーは1/32オーナズクラブに少なからぬ影響を与えた。
今注目している事に「出戻りモデラー」がある、一旦プラモデル趣味を離れ時を経て又舞い戻った人達である。あと20年位すると又プラモデルは売れる、只説明書の文字を大きくして老眼鏡でなくても読めるようにする必要がある「それが?」であった。何年か前そんな反応のあった或る社の製品に説明書の文字の大きいことを表示してあったのを見てニンマリ。団塊の世代の「大出戻りモデラー」を想定しての事であった。最近その想定を大きく変えた「大出戻りモデラー」の大半はプラモには戻らない。零戦を例にしようプロペラ機→戦争中の飛行機→零戦→21型、52型→三菱?、中島?→32型、22型→・・・・・→何々部隊仕様→誰それ機→ 前期型、後期型→生産何号機→。現在のプラモデル界の水準がどの辺りかはあまり関心がない、又趣味のことでありそれぞれが自分のポジションで楽しめばいいことでもある。プラモデルの零戦のマニアへの入り口は21型、52型→三菱?、中島?辺りでその21型、52型辺りのレベルの世界は製品とともに消えてしまった。
旧知の「出戻り」組の一人に次のホームページを開いている人が居るhttp://homepage2.nifty.com/shitamachiAF/、消えてしまったレベル(読み返してまずい表現、水準)の新しい感覚の世界と注目をしている。零戦は例であり「大出戻り組」が離れた頃の水準のプラモの世界は今は無い。

さらばウサギ小屋、1/144の開発を進めた頃日本の住宅事情では大スケールは無理、
帆船、ジグソーパズル、鉄道模型など製作、楽しむ時間より準備、後片づけの時間の方が長いのが現実であった。わがウサギ小屋も同様部屋の余裕がなかった、子供がそれぞれ巣立った今、部屋が余って居り男の書斎とは言えないまでも遊び部屋は持てた。先日模型とは関係ない東京の出版社の編集人が近くに来たからと立ち寄った、若い二人である。そのことを話した処、二人ともに実家に帰ったら自分の部屋が無く親父の部屋になっており、一人は陶芸の工房になっていたと嘆いていた。
ここ数年Nゲージの鉄道模型が大人の世界に急速に流行りだしていると想う。近辺の図書館の蔵書に関連本が増え、よく借り出され出版物も増えている。以前トイザラスで一人鉄道模型のケース内を眺めている親父、家族からはぐれた親父を発見した「あんた、そんな物買える余裕などないよ!」の表情のカミさん、そんな光景をよく見た。(私の場合それが消防車でありボンネットバスの構造はそれに対応出来る事を考えていた。それは先日ようやく実現できた)。親父達の目は車両では無くレイアウトに注がれていた。Nゲージにしろ1/144にしても運転手、パイロットの目線で考えてきていた処があるがスペース+時間+○に余裕のある「大出戻りモデラー」は鉄道会社の社長であり、司令官の目線で戻ってくる。もう一つ大きな事がある団塊の世代はナイフを使っていた世代である。温故知新、今この言葉の中に「大出戻り」含め新しい模型の世界が眠っている

「出戻りモデラー若い衆」ネット上で団塊の世代の「大出戻り」より若い世代の出戻りモデラーの作品が新鮮である、何処とは表現できないが。プラモデルを離れ全く別の趣味でプラモとは異なった楽しみ方、遊び方を経験した部分が
感じられる。それが飛行機の脇の小物であり、機首の先の青い大空が爽快な空か悲壮な空かを感じさせるような、そして新しい感覚の21型、52型辺りの楽しみ方、それよりも表現できない何かが感じられる。
2005.8.14(我が家の一番偉い人の記念すべき誕生日)

開発裏話は主の心境の変化で突然ですが中断いたします
ご愛読ありがとうございました。                         
                                                                      松野 博2005.8.17



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